スラッシュドットの以下のレスを読みながら考えた。
「保護観察処分でWindowsを強制されられそうなLinuxユーザ」のコメント
「完全に禁止がは可哀想だから、特別に監視ツールを入れたPCでの使用位は認めても良いよ。」って事で、この話自体が大きな便宜なんだって事を考えるべきでしょう。 ですから特別の便宜に対して不満が有るなら、便宜なしでの「PCの使用禁止」で済む話ではないかと。
#でないと犯罪者に対して何処までの便宜が必要になる事か。>イスラム教の受刑者に豚肉料理を強制するのは刑罰の範囲か?
明らかにそこまでの人権に近いレベルの話ではなく、所詮はPC。道具の話ですから、そんなのを同一視する事自体がオカシイ。それを認めると世界中にある全てのプラットフォームに対応しないと差別って事になる。が、現実的にはそれは不可能。となると、平等にに懲罰を行う為の方法は、やっぱり「全面禁止」しかないんで、結局は同じだけどね。
ここだけ抜き出すと意味不明だけど、要は、犯罪者(保護観察処分対象者)に対して宗教上の配慮は必要かもしれないが、使用するPCの自由まで認める必要はないよねという趣旨のコメント。で、使用するPCを選択する自由よりも信教の自由の方が上位の権利であるという感覚が僕にはよくわからない。
例えば、イスラム教徒はイスラム教を信仰する(=豚肉を食べることができないという戒律を受け入れる)ことを自分で選択した(※)わけで、それ故のある種のリスクや不自由を感じることがあってもそれは仕方がないことじゃないのか。もちろん多様な価値観を受け入れられる寛容な社会であるべきだしそのためのできるだけの配慮は必要だけど、その他の個人の権利と比べて、それが取り立てて優越して尊重しなければならない理由はないはず。
それなのに、「宗教上の理由」という言葉が使われると、それが錦の御旗のようになり、腫れ物に触れるような扱いになってしまう社会にどうも違和感を感じる。
(※)話がそれるが。
自分で選択してるわけではなくて、産まれ育った環境(国や地域や家庭)に従って、他の宗教もろくに知らないままに半自動的に決定されてしまうという問題はあるかもしれない。信教の自由ということを考えるときにはこれは大きな問題だと思う。幼少期の子供に選択肢を一つしか与えないで決定させることのどこが自由と言えるだろうか。これは途上国やイスラム圏だけの話ではない。
いっそ「判断力のない」未成年に対しては、特定の宗教の教義だけを教えることを禁止し、公教育で主な宗教の教義を分け隔てなく公平に教えて、成人後に選択するという方式にしてはどうだろうか?

